【光る君へ】敦康(あつやす)を巡り藤原彰子と道長が対立?中宮としての自覚

NHKにて放送されている『光る君へ』

平安時代を舞台に紫式部(吉高由里子)の生涯を描く物語で、第40話では紫式部が仕える中宮藤原彰子とその父藤原道長が対立する様子が描かれました。

もともと奥ゆかし彰子さまが感情をあらわにし父道長にくってかかる様は視聴者の方もびっくりしたはず・・

今回の記事では

✓ 彰子の気質と変化

✓ 彰子と道長が対立した理由

を調査しまとめいきます。

目次

登場当初の藤原彰子

藤原彰子(見上愛)は藤原道長の長女として988年に誕生します。

12歳の時に一条天皇の後宮に入り女御となります。この女御は中宮に次ぐ地位となります。

この時一条天皇には藤原定子という中宮(正妻)がいます

定子は一条天皇が物心つく頃から女御として入内し、一条天皇から寵愛されていました。

ですので、彰子は思い人のいる一条天皇の元へ嫁ぐこととなります。

これも父:藤原道長の策略で言わば政略結婚なのですが、当時の彰子はといえば

道長に命じられたことには「仰せの通りに」と操り人形のようでした。

一条天皇からの問いかけにもかなり塩対応で、一条天皇の中ではやはり定子が一番という思いが強いようです。

しかし、定子は第三子の敦康を産むと同時に命を落としてしまいます。

彰子の変化

定子の亡き後、藤原道長の意向で彰子が中宮となりますが、一条天皇との距離は一向に縮まりません。

しかし、定子の忘れ形見の敦康や紫式部との交流を経て次第に変化があります。

敦康との交流

定子に代わって敦康の母代わりとなりお世話することとなり、実の息子のように敦康との仲を深めていきます

敦康も彰子を慕っており、元服し彰子のいる藤壺を去ることが決まった際にも離れ難いと思われていたようです。

血の繋がりがなくとも、一条天皇の思い人の息子であろうとも愛情を注いでいた彰子のやさしさや懐の深さが伝わってきます。

決して操り人形などではなく愛情深い方だったのですね!

紫式部との交流

なかなか自分の思うことを言えなかった彰子です。

例えば、彰子のお世話係たちは彰子はピンク色を好むとしてピンクや赤といったお召し物を用意していますが、

本来彰子の好きな色は水色。空のように澄んだ水色です。

紫式部はそんな彰子の悪い意味での奥ゆかしさを見抜いており、自分に素直になることを教えていきます

塩対応をしてしまった一条天皇に対しても実はひそかに恋心を抱いており

その気持ちを一条天皇にぶつけることも紫式部が提案し提案しています。

徐々に自分と向き合い素直になった彰子はある日、思いがけず一条天皇へ自分の気持ちをぶつけるのですが、

伝え方がド直球です!すがすがしく気持ちいいぐらいに。

これには、彰子を人形のようと表していた一条天皇もびっくり仰天です!

でも、このギャップに男性はやられますよね~ 笑

紫式部に頼み、勉学にも励み自分の思うことも伝えられるようになった彰子。

最近の放送では、彰子が好きな水色の着物を着ています!

父:藤原道長との対立

一条天皇の体調が芳しくなく、次の天皇を検討します。

一条天皇は元中宮で今は亡き定子の子、敦康を次の天皇にと考えていますが、藤原道長は彰子の子で自分の孫にあたる敦成(あつひら)をと考えています。

一方の彰子とは言うと一条天皇の意向を汲みたいという気持ちと、ともに過ごした敦康を次の天皇に推挙し、自分の息子はその次に・・と考えています。

一条天皇や実の娘の意向を汲み道長には敦康を時期天皇として推挙してほしいと願う彰子ですが、願いかなわず強引に推し進めようとする父道長に感情が爆発します。

一条天皇や敦康の気持ちを考えしっかりと自分の意見を伝えることができるようになった彰子。

登場当初からは考えられないぐらい成長し、中宮としての自覚もしっかりしてますね!

そして、やはりド直球です。

相手の様子を伺うことなくド直球で自分の意見を伝える強い女性になられたのですね。

現代でも必要な要素だなとしみじみ感じた次第です。

まとめ

本記事をまとめると以下の通りです。

✓ 彰子は当初操り人形のように自分の思いを伝えられずにいた

✓ 敦康や紫式部との交流を経て強くしなやかな女性\中宮へと変化

✓ 時期天皇を巡り父藤原道長へ思いの丈を伝える(ド直球)

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